GLOCAL vol.12
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2018 Vol.122018 Vol.122018 Vol.122018 Vol.129いた。しかし、日本はあくまで対等にこだわり続けた。日本は欧米諸国の影響で、世界に関わり始めたが、朝鮮・中国という近隣諸国とも新たな関係を築くことになった。日本のスタンスは西洋国際システムにおかれたが、東アジアからすれば、異端な行動であり、摩擦や衝突もたびたびあった。しかし、日本は華夷秩序をあからさまに否定していたわけではなく、妥協点を探っていた。そんな中での日清戦争の勃発であった。一方、日本の条約改正の結果は、日清戦争の遂行という後押しによってイギリスに受け入れられた。国民の代表である帝国議会のほとんどが反対を表明していたにもかかわらず、改正条約は締結され、日清戦争の遂行とともに、議会は手放しで賛成へとまわった。明治政府の目標としていた「万国対峙」の道が開いたと同時に、国際社会という新たな難関が待ち受けているのである。また、日清戦争の結果、「華夷秩序」は完全に否定され、「西洋標準」にしかすぎなかった西洋国際システムは、東アジア世界においても「グローバル・スタンダード」になった。西洋国際法はもはや国際法となった。引用文献1)内閣官房「明治150年」関連施策推進室、「明治150年ポータルサイト」(https://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/portal/index.html)2)森田朋子「総論 明治維新と外交」(明治維新史学会編『講座 明治維新6 明治維新と外交』有志舎、2017年、pp.1-14。近年の外交史の動向 ペリー来航・日清戦争の評価の変化1853年にペリーが来航した事実は変わらないのに、なぜ未だにペリー来航が研究されているのか。歴史学になじみのない方には、不思議に思われるかもしれない。しかし、歴史とは、時代によって常に変化し続けるものである。明治維新という時代が、以前とはどのように変化してとらえられているのか、外交という分野に限って考えてみよう。戦後に盛んとなった明治維新の研究は、GHQの占領と無関係ではない。アメリカ・黒船というペリー来航は、GHQのイメージと重ねられて特別視されてきた。司馬遼太郎の作品が人気を博したのは、まさにその時代とマッチしていたことも理由の一つであり、坂本龍馬というヒーローが誕生した背景でもある。ところが、バブルを越えた現代の私たちは、ついにその呪縛を解き放つことができた。ぺリーという絶対的な強者に脅されて、開国させられたというイメージはもはやない。幕府は、海外の動向を把握していたために、戦争という選択肢を避けることに徹し、開国を選択し、一方のペリーは、本国から積極的戦闘を禁止され、海図もない東京湾に帆船を連れて乗り込まなければならない使節だった。アメリカ・ロシアという近国からの来訪は、19世紀グローバル化動向の一環であり、列強とよばれるイギリス・フランスだけでなく、ヨーロッパ諸外国がアジアそして日本へ乗り出してきていた。近年では、諸外国それぞれがどのような思いで日本にやってきたのか、各国の文献を利用した研究も盛んになっている。もっとも、現在の分析と、当時の人々がどうとらえていたかということは、別の問題であることは注記しておきたい。もう一つの大きな変化は、アジア・太平洋戦争につながる日本の大陸進出を、明治維新に求める傾向からの脱却である。征韓論・台湾出兵、そして日清・日露戦争が一貫した流れのように思われていた。しかし、明治以降の日本が、東アジア(朝鮮・中国)とどのような関係を築いてきたのかが明らかになり、さらに日清戦争の研究が進んで、日清戦争が計画性もなく行われたことが明らかになった。日清戦争の結果が与えた世界史的影響の大きさを考えると、あらためて戦争は魔物のように思えてしまう。「万国対峙」という目標東アジア世界における国際関係の伝統的システムとして「華夷秩序」がある。アヘン戦争という事件を重く受け止めたのは、当事者の中国でも、その第一の属国である朝鮮でもなく、「華夷秩序」の周辺にいた日本、その一部の知識階級であった。華であるべき中国が夷であるイギリスに敗退し、領土を奪われたことは、世界の脅威に対する日本の警戒度をかなり高めることになった。なぜ鎖国をしていた日本が世界に関心をもったのか、それとも鎖国をしたからこそであろうか。江戸時代の日本は、世界という知に対して貪欲であり、また島国根性とよぶべきものかどうかはわからないが、日本も世界の中の一カ国であるという自負に支えられていた。「万国対峙」、世界の強国と並び立つ国であることは、江戸時代からの日本の目標であった。ここでいう「万国」とは、蒸気船で世界に乗り出してきた西洋諸国のことであり、世界標準とは、すなわち「西洋標準」のことであった。日本は西洋国際法にのっとって不平等条約を締結し、西洋国際システムに編入されることになった。条約の破棄という選択肢も考えられたが、結局、日本は西洋国際システムを遵奉し、条約の改正によって欧米諸国と対等になろうとした。「西洋標準」とは、本来は「キリスト教標準」であるのだが、その大義名分は「文明国標準」である。日本は「文明国」になることによって西洋諸国と対等であることを目指したわけである。 ヨーロッパ諸国からすると、何も日本と対等な国際関係を作りたいと望んでいたわけではない。日本に限ったことではないが、原料の供給、市場の開拓、航海上の拠点さえ確保できれば、問題はなかった。もちろん、このことが安全に遂行できないならば、武力による実力行使にためらいはない。それが近代帝国主義である。古くはマカオ・バタビアという植民地があるが、西洋諸国はアジアにおいては、条約港さえ持てれば、問題はないと考えていた。日本では、長崎の出島は狭く閉鎖的だったが、五港を開港したことに満足して

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