GLOCAL Vol.11
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2017 Vol.112017 Vol.112017 Vol.112017 Vol.119戦国期における甲斐国都留郡小山田氏の動向を務め、後北条氏の居城小田原まで送り、同所にて越年したと記されている。 後北条氏領国における所領について記された『小田原衆所領役帳』に「他国衆」として小山田弥三郎・弥五郎の名が見える。天文二十三年に小山田氏は、武田信玄の娘を無事小田原に送り届け、婚儀を結ぶことができ、その恩賞として所領を北条氏康から与えられ、「他国衆」として位置づけられたと推測する。おわりに 先行研究において、小山田氏は武田氏領国にどのように位置づけることができるのか、様々な議論がなされてきた。なかでも武田氏への小山田氏の従属については、『勝山記』の大永四年・享禄三年の条より、大永年間から享禄年間にかけて従属していったと考える。 また、後北条氏との関係について、小山田氏は天文二十三年に武田氏と後北条氏との同盟に武田氏の被官として外交役を担ったことで、その恩賞として後北条氏から所領を宛がわれたのである。したがって小山田氏は後北条氏とは従属関係を結んではおらず、後北条氏は小山田氏を武田氏の被官として認識しており、所領を与えたために「他国衆」として位置づけたのだと考える。 今後としては、小山田氏以外の武田氏の被官や他の領主に着目し、小山田氏との比較をするとともに、史料についてより一層考証を重ね、16世紀の甲斐国や駿河国、相模国といった南関東地域の中世社会について明らかにしたい。はじめに 戦国期の甲斐国は、「国中」、「河内」、「郡内(都留郡)」の三つの地域に分かれていた。主に「国中」は武田氏、「河内」は穴山氏、「郡内」は小山田氏のように、それぞれの勢力が甲斐国内を分割して支配していた。 小山田氏の研究は、武田氏と小山田氏との関係及び「郡内」領の支配をどのように捉えるかという点を軸に展開された。小山田氏は武田氏領国において武田氏の譜代として位置づけられた。しかし、その一方で、小山田氏は後北条氏とのつながりを持っていたとされ、小山田氏は後北条氏と武田氏の両属関係にあったと言われている。 本稿では、都留郡小山田氏を取り上げて、武田氏と後北条氏との関係を踏まえつつ、小山田氏の動向の新知見について報告する。永正・大永年間における小山田氏の動向 永正年間から大永年間における小山田氏の動向に関して、先行研究では『勝山記』の永正七年(一五一〇)の条に、武田信虎と和睦したとあることから、小山田氏は武田氏の軍事下に置かれていたとみなされている。 そこで『勝山記』と小山田氏の発給文書などから見直していく。『勝山記』の永正五年(一五〇八)の条に、武田信虎と小山田氏が合戦し、小山田氏の家臣が討死にしたと記されている。永正六年(一五〇九)には、武田信虎は都留郡へと乱入し、永正七年(一五一〇)に武田信虎と小山田氏は和睦したと記されている。しかし、永正十二年(一五一五)に今川氏の軍勢が甲斐を攻め、武田・小山田氏と戦ったが、永正十五年(一五一八)に今川氏は小山田氏と和睦した。小山田氏は武田家臣団の中で、独自に和睦しうる独立性の強い領主であったと考える。 大永年間の小山田氏の動向について、『勝山記』の大永四年(一五二四)の条に、武田信虎は猿橋(大月市)から奥三保へと進軍したとある。奥三保とは津久井郡の北部に位置し、都留郡と接する地域であるため、武田信虎は都留郡を通って津久井郡に進軍しており、小山田氏もその軍に加わっていたと推測する。『勝山記』の享禄三年(一五三〇)四月二十三日の条に、小山田越中守信有は武田氏の先方衆として、八坪坂(現北都留郡上野原町大野)で北条氏綱と合戦したと記されているので、大永・享禄年間に小山田氏は武田氏に従ったと思われる。天文年間における小山田氏の動向 『勝山記』の天文十年(一五四一)の条に、武田信虎は息子武田晴信に駿河へと追放されたと記されており、武田氏の当主は信虎から晴信(後の武田信玄)へと移行した。小山田氏も越中守信有からその子出羽守信有へと家督が継承された。『勝山記』の天文二十三年(一五五四)十二月の条には、武田信玄の娘を北条氏康の子氏政に嫁がせる際に、出羽守の子弥三郎信有は、蟇ひき目め役やく(邪気を払う役目)国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程 M1堀 翔太(HORI Syouta)1994年岐阜県生まれ。中部大学大学院国際人間学研究科(歴史・地理学専攻)博士前期課程在学中。専門は日本中世史。現在、16世紀の甲斐国(現山梨県)における戦国大名武田氏の家臣小山田氏について、甲斐国・相模国・駿河国の隣接地域に注目して研究をしている。

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