GLOCAL Vol.9
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6戦国期遠江における堀越氏の動向害したとされている。この反乱により堀越氏は滅亡したと多くの先行研究で説かれている。 しかし、『今川氏系図』(諸井進吾氏所蔵)や『寛政重修諸家譜』に氏延以降の子孫の記録が詳細に残されていることや、『浜松御在城記』の徳川家康による見付城築城計画の記載から、堀越氏の家としての滅亡は無かったと考える。 また、『今川家譜』の記載では判明しなかった「遠州忩劇」の日時に関して、筆者は永禄6年10月の段階で堀越氏の旧領が氏真によって松井氏に与えられている(『今川氏真判物写』土佐国蠧簡集残篇四)ことから、同年10月までに反乱は起きていたと推測する。おわりに 本研究において、中小の在地勢力ならびに今川氏・斯波氏といった守護勢力が乱立する15・16世紀の遠江国の中で、堀越氏という存在が国府である見付や本拠地堀越で、如何にして家を残そうとしたか、その一端に触れることができた。 今後は、今川氏家臣団内における一門、中小領主のあり方の研究などを対象とするとともに、全国的な日本中世の領主制の事例などを鑑みながら、史料などの考証を重ね、遠江や駿河、三河といった東海地区の中世史像を明らかにしていきたい。はじめに 戦国期の遠江は、今川氏・斯波氏の支配下にありながらも、同じ今川氏の支配国である駿河などと比べ、中小の領主たちが独自の動きを見せ、上層権力が深く浸透していない状況であった。そうした中で比較的大きな影響力を持っていた中遠の堀越氏について取り上げる。 堀越氏は、南北朝期に堀越(現静岡県袋井市)に根差した家で、別名「遠江今川氏」として名を残し、堀越・見付を中心とした中遠地域に一定の影響力を持っていた。 しかし、この堀越氏については先行研究上でも不明な点が多く、特に15世紀後半における堀越氏の政治的動向については、注目すべき点が多いにもかかわらず、いまだ家名の存続状況すら不明確である。そこで、本報告では、駿河今川氏の遠江侵攻にも影響を与えたとされる「中遠一揆」と「遠州忩劇」以後の堀越氏について報告する。「中遠一揆」 中遠一揆とは、小木早苗氏が1979年に説いた、長禄年間に中遠一帯で国人や今川庶家が結束して、今川治部少輔を盟主とし、守護斯波氏に対して反乱を起こしたというものである。結果、反乱は守護代らにより鎮圧され、今川治部少輔は討ち死にした。また盟主、今川治部少輔については範将としている(『駿河の今川氏』第四集 今川氏研究会編 1979年)。 この範将というのが、堀越氏の四代目当主今川範将のことであり、このことから堀越氏が、当時遠江国内でも一定の影響力を保持していたことが分かる。 また、筆者は長禄3年(1459年)の幕府奉行人連署奉書(南禅寺文書)の「~可打入遠江国旨風聞云々」という記載と、『今川家譜』における範将の父貞相の駿河下向に関する記載から、従来の遠江国内のみでの反乱としてとらえるのではなく、今川治部少輔は事件当時、駿河国内に居住していたか、あるいは駿河の勢力とも何らかの関わりがあったのではないかと推測する。「遠州忩劇」 『今川家譜』によると、永禄6年(1563年)武田信虎・信玄親子は駿河を攻め取るため、当時駿河国を支配していた駿河今川氏の一門である堀越氏と遠江の国人たちをそそのかした。その結果、駿河今川氏当主今川氏真に対し遠江国内で反乱が発生した。氏真はこの出来事を「遠州忩劇」と言い表している。 この反乱に堀越氏は遠江国内の反乱軍方に加わっており、駿河今川氏に対して反旗を翻した。『今川家譜』によると、反乱は駿河今川氏によって鎮圧され、堀越氏当主氏延は自国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 M1内藤剛暉(NAITO Goki)1993年静岡県生まれ。中部大学大学院国際人間学研究科(歴史学・地理学専攻)博士前期課程在学中。専門は日本中世史。現在、15・16世紀における遠江国(現静岡県西部地域)の政治史を中心に研究している。

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