GLOCAL Vol.9
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2016 Vol.92016 Vol.92016 Vol.92016 Vol.95る良書を、その誤りを除去し、純化しながら出版させることである。」と論じているが、こうした文脈の中で、コルネイユ、ラシーヌなどに代表される、フランス・クラシック期の作家の作品はフランス文学における字義通り「黄金時代」を体現する「古典」として称揚されるようになった。結びにかえて:新たなリベラル・アーツの可能性 古代ギリシアのものにせよ、18世紀フランスのものにせよ、プラトン式のリベラル・アーツは、普遍的な価値をもつ「古典」に立脚する教育は、現代のわれわれにとって古びたものに見えるかもしれない。18世紀においてもイギリスではハチスンが美的判断において普遍的な価値基準はないと述べており、カント以後、この価値判断の問題には答えが出ていない。このため、従来、文芸をめぐる教育において、こうした普遍的な価値基準を設定するのは難しいと考えるのが一般的であった。 しかしながらプラトン式のリベラル・アーツは21世紀の世界にとって、いまだに有益であると言うこともできるのではないだろうか。もちろん現代社会において、古代シチリアや18世紀フランスの事例をそのまま導入しようとすれば、いかがわしい「愛国教育」を跋扈させることになりかねない。現にフランスでは、2016年8月に、来年の大統領選で次期政権を担うとされる「中道右派」の政治家フランソワ・フィヨンが「国家の物語を再構築しよう!」と声を上げたことが話題となっている。 21世紀にリベラル・アーツを再構築できるとすれば、グローバルなパースペクティブのもとに、世界共通の古典を選び出すことが最初の一歩となるだろう。それと同時に各言語におけるローカルな古典も必要である。われわれが新たに選び出す新しい古典は、あくまで「仮想の基盤」に過ぎないかもしれない。けれども、それを意識した上で、新しい教養教育を提案することは可能ではないだろうか。主要参考文献Renée Balibar, L’institution du français, essai sur le colinquisme des Carolingiens à la République, (Paris, PUF, 1985)François de Dainville, L’Éducation des Jésuites (XVIème-XVIIIème siècle), (Éditions de Minuit, 1978)オリヴィエ・ルブール『レトリック』(佐野泰雄訳)、白水社〈文庫クセジュ〉 2000よれば、文芸を学ぶ意義とはすなわち、ホメロスをはじめとするすぐれた詩人の作品に繰り返し接することにより、その美質を感じ取る能力を涵養することであった(国家402B~D)。学問体系としてのレトリックの成立 レトリックはその後、アリストテレスが『レトリック(弁論術)』において、どんな虚偽よりも「真実がもっとも説得力をもつ」と論じたことから、ヨーロッパ的教養のなかに組み込まれていくことになる。そしてその後、紀元前1世紀ごろのローマで刊行されたキケロの『弁論家について』とクィンティリアヌスの『弁論家の教育について』がレトリックを一つの学問体系として完成させた。 この古典レトリックの理論は、「発見法」「配置法」「表現法」の三分法で構成されていた。まず「発見法」において、言説の主題にふさわしい話題を見出し、次の「配置法」により話の題材の全体における配置が定められ、「表現法」において、言説の主題をよりよく表現するために効果的な文体を選択するという手順である。レトリックが弁論術として用いられる場合には、この三分法に「記憶法」と「演示法」が加えられた。レトリックは4~5世紀のローマにおいて、文法、レトリック、弁証法の3学と、算術、幾何、天文学、音楽の4科によって構築される自由七科に再編成された。18世紀フランスにおけるフランス語によるレトリック教育 古代ローマにおいて体系化されたレトリックの理論は、中世においてもヨーロッパにおける知的基盤で有り続けた。その後、ルネサンス期には印刷技術の発明により、キリスト教聖職者を中心にラテン語を共通語とした知的ネットワークが拡がり、16~17世紀にはイエズス会などの修道会がコレージュと呼ばれる教育機関において、ラテン語の指導を担うようになった。ところが、フランスにおいては、18世紀になると法曹界の拡大、官僚組織の発展、商業ブルジョワジーの台頭から、高度なフランス語教育の需要が高まり、フランス語によるレトリック教育が実施されるようになる。 コレージュの生徒は「文法課程」において3~4年の文法教育を経た後、「レトリック課程」に進んだ。文法課程がフランス語の正確な用法を習得することを目的としていたのに対して、レトリック課程は文学作品を鑑賞することによって文章を構築する方法を学ぶ場であった。コレージュの中では、17~18世紀中葉になると、学費を無償化していたイエズス会が運営するコレージュが大きな勢力をもつようになる。コレージュの生徒のうち、貴族階級が占める割合は全体の数パーセントに過ぎず、他の生徒たちは商人、手工業者、農民といった平民であった。イエズス会にとってレトリック教育は優秀な人材を育成し、選別する手段であったが、その一方、学生にとってコレージュにおけるレトリック教育は、高度なフランス語運用能力を身に付けることで社会的上昇を実現するチャンスとなった。実際、フランス革命において「テニスコートの誓い」に加わった平民たちの多くは、このコレージュにおける無償のレトリック教育によって弁論の力を身につけた者たちであった。アカデミー・フランセーズの言語政策 18世紀フランスの教育においてラテン語からフランス語への転換を推進したのはリシュリューによって1635年に設立されたアカデミーによるトップダウン式の言語政策である。レトリックは理論においても実践においても、「古典」とされるモデルを繰り返し読んで習得するという訓練をとおして、鑑識眼を身に付け、判断力を身に付けるという、プラトン以来のリベラル・アーツの伝統を継承していた。このためフランス語によるレトリックの成立には、新たな「古典」、すなわち模範となるモデルを設定することが必要とされた。この新しい「古典」を選定する役割を担っていたのがアカデミー・フランセーズであった。 アカデミーの言語政策の直接の目的は、ホメロス、ウェルギリウスなどの文学作品の言語をそのままの形で残していた古代ラテン語と、フランス語が同じステイタスを得ることであった。ラテン語は古代ローマにおいて完成されて以来、古代ラテン文学を規範として一切の変化を許容しない言語として使用されていたが、この古代ラテン語と古代ラテン文学における歴史的関係こそが、アカデミーにとってのフランス語生成のモデルだったのである。 アカデミーの言語政策ではルイ14世期の文学作品がフランス語における「新しい古典/普遍的な参照対象」とされた。例えば当時大きな発言力を持っていた知識人、ヴォルテールは「アカデミーの義務とは文学、言語、そして国家のために、ルイ14世時代のあらゆ

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