GLOCAL Vol.9
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2016 Vol.92016 Vol.92016 Vol.92016 Vol.93複数存在した都市への移動ルート(例えば私塾で学び、徒弟となってホワイトカラー的な職員になっていくようなライフコース)が、進学一本のみになってしまった。結果、中華人民共和国初期においては、進学圧力がより高まることになったといえる。社会的機能と政治的機能の絡み合いから見る学校教育の発展と利用・被利用 学校教育が農村部地域社会に広がる中で、1930年代に中等学校に進学する層に共有されていた学校教育の目的は進学であるという学校観が拡大・浸透していったのが、近代中国における学校教育のもう一つの特色であるといえよう。 学校教育を普及させた政府側の目的は、地域社会の掌握と政治教育の推進―政治宣伝による政府の正当性の調達、支持層の形成―にあった。各時期の政府は学校教育を普及させ、そのなかで政治教育を推進するために、多額の経費と人材を投入したのである。 しかしこうした政治教育のための学校教育の普及は、全てが全て各時期の政府が企図したような、政府に忠実で、公式イデオロギーを信奉するような学生を育成できたわけではなかった。学生たちの多くはむしろ、自己の利益―都市生活へのあこがれ―を最大化することを目的として学校教育を利用したと言える。学校教育の普及はむしろ農村部地域社会に、1930年代の都市中間層に共有されていた、近代学校への進学がより良い生活を得る手段であるというイメージを伝達し、さらに実際に進学を可能にする手段を整えることになったのである。主要参考文献岩間一弘『上海近代のホワイトカラー』研文出版 2011大澤肇「近現代上海・江南の小学教員層」『中国―社会と文化』22号 2007大澤肇「南京国民政府の政治教育」『アジア教育史研究』18号 2009大澤肇「中華人民共和国初期における学校教育と社会統合」『アジア研究』55巻1号 2009大澤肇「近現代中国における中等学生の「進路問題」」『東洋学報』92巻1号 2010広田照幸『陸軍将校の教育社会史』世織書房 1997陳培豊『同化の同床異夢』三元社 2010頭脳労働に従事するというホワイトカラー的な職業への就職、すなわち都市におけるよりよい豊かな生活への憧れであった。 都市への憧れは、小学教員でも同様だった。小学教員のなかには国民党員である者が多いなど国民党の影響力が強かった。しかし彼・彼女らの大多数は、都市志向であり、よりよい職場を求めて、都市への転任や進学、転職を希望していた。さらに中華人民共和国初期でさえも、大々的に行われた政府の宣伝や政治運動に対して、自らの利害関心や、「合理的」な判断から進学、あるいは退学を希望するような民衆や学生が少なくなかったのである。 すなわち、政府のイデオロギーや宣伝をそのまま受容し、愛国や「救国」に奮闘した学生や教員は多くなく、すなわち最も強く政治教育を受けているはずの中等教育に属する学生やその後身の教員たちにさえ、その効果は限定的なものにとどまったと言える。 政治教育に対する社会の反応について、日本教育史研究者の広田照幸は、従来の教育史のような無条件の「イデオロギーの内面化」論を批判し、主体的契機や私的欲求、私的利益と複雑に結びついていたことを、日本陸軍における将校教育の分析を通して実証した。広田は政治教育を通した素朴な「イデオロギーの内面化」はありえず、政治教育を通したイデオロギーの伝達は、人々の行動の準拠価値を一つ増やすものでしかないこと、そして準拠価値同士が整合したり、矛盾したりすることがあり得ると述べている。すなわち、政治教育を受けた人々が、公的なイデオロギーよりも私的欲求、私的利益を、制度を改革・破壊させることなく共存させ、既存の制度のなかでそれを追求するということも十分あり得るのである。政治教育と絡み合った社会化―党国体制下における近代性伝播 前述したように、学校教育における政治教育は執政党のイデオロギーや政治宣伝が中心であったとはいえ、政治教育のなかにはそれ以外の要素を見出すことができる。それは科挙時代の中国においては、決して普遍的な存在ではなかったナショナリズムや近代的な価値観―衛生・清潔・健康を保つこと、規律・法・時間を守ること、公共(性)を意識する―などである。その多くは1920年代の公民教育運動、あるいはそれ以前の時期からその存在を見出すことができるように、党国体制とは何ら関係の無いものである。しかし党国体制下では、このような近代的な価値観が、執政党のイデオロギーとして、あるいは執政党のイデオロギーと絡み合う形で、上から伝播されようとしたのである。このような「政治教育と絡み合った社会化」こそ、党国体制下、すなわち近代中国における学校教育の特色である。こうした教育のなかで伝達される近代的な価値観は、かつて岩間一弘が指摘したように、また都市部の企業とも親和性が高いものであった。 これは欧米のように、学校文化が特定の社会階層に親和的であったというより、近代中国においては日本と同様、学校教育の体系は社会的階層秩序と対応せず、むしろ学校の伝達する文化が結果的に各社会層の「階層文化」をつくりだすという関係の方が支配的であったと考えられる。選抜・配分―科挙的学校教育観の変容と拡大・浸透 教育社会学で言われる、学校教育の「選抜・配分機能」について、近代中国の学校教育は広い意味では科挙を継承したといえる。ただし、客観的な社会的機能は同じであったとはいえ、科挙は「学びて即仕える」という官吏生活が目標であったのに対し、近代学校教育では、その目標が、都市部におけるホワイトカラー的な生活や職業に変化したといえる。このような技能修得ではなく進学を第一にするという学校教育観や、学校教育が都市部への人材流出を促進するという点については、中華人民共和国が成立した1950年代においても変化せずに存在した。むしろ中華人民共和国初期においては、公安条例や農業集団化などで社会の流動性が低くなっていき、1930年代の蔣介石南京国民政府時期には

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