GLOCAL Vol.8
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2016 Vol.82016 Vol.82016 Vol.85疳とに妙なり、労症は灸して後、しばらくありて虫出て治す」とあり、灸をすえると「労」の場合は虫が実際に出てくるとしている〔細野 1961 223〕。これらのことから、すくなくともこの地域では「虫」は、生き物と霊的存在という二つのイメージを持っていたといえる。 以上から、この地域の寺院で販売されていた「保童円」は、霊的存在である「疳の虫」に対する「虫封じ」の文脈で成立したのではないかと見ることができる。名古屋では寺院が関与しない薬舗で販売される「保童円」も存在した。こちらは実体としての「疳の虫」に対応するものだといえ、この地域では両方のイメージに対応した「保童円」が混在していたのではないか。 寺院で販売されていた「保童円」については、もう一つ留意しておかなければならない点がある。それは、先の一覧表の寺院は氏長山真広寺をのぞいて、すべて臨済宗妙心寺の末寺であったという事実である。これはこの地域の「保童円」に、何らかのかたちで臨済宗妙心寺が関与していたことを示唆している。今後の課題であろう。参考文献・井萱幸代・井上幸枝2009「現代に息づく蟲―疳の虫にみる日本人の疾病観」『東洋療法学校協会学会誌』(33)・桑山好之1960『金鱗九十九之塵』名古屋市教育委員会・越川次郎1999「家伝薬の諸相とその変容―大雄山最乗寺の「大雄丸」を事例として―」民俗学論叢 第14号・坂井賢太,佐藤博,中村輝子,遠藤次郎2005「小児五疳薬の系譜〈1〉五疳保童円・保童円」『薬史学雑誌』40―2・清水藤太郎1949『日本薬学史』南山堂・全日本仏教会(編)1973『全国寺院名鑑』(中部編)寺院名鑑刊行会・宗田一1993『日本の名薬』八坂書房・中村輝子,遠藤次郎,田村一至2004「日本の売薬(1)小児五疳薬」『薬史学雑誌』39―2・林英夫(編)1984『日本名所風俗図会』6(『尾張名所図会』『尾張名陽図会』『犬山視聞図会』)角川書店・樋口好古1963『那古野府城志』名古屋市教育委員会・深田正韶1969『尾張志』(下)歴史図書社・深谷義雄1965『愛知県薬業史』名古屋薬業倶楽部・細野要斎1961『感興漫筆』(中)名古屋市教育委員会・松平君山(修撰)1974『張州府志』愛知県郷土資料刊行会・吉岡信1989『近世日本薬業史研究』薬事日報社妙興寺の塔頭泰陽庵の僧を請じて住僧とす。この僧医術をたしなみ、保童円の名方を伝へて名高し。すなはち薬師を別堂に安置し、旧名を用ひて久法寺と号す。この住僧、可笑軒と言ひしが、その跡を相続する僧有り、薬法を伝へて堂守せしなり。」「泰陽庵」の僧を招いて住持として寺院とした。この僧が「保童円」を伝えたとしている。同様のことは、文政五年(1822)成立の樋口好古による『那古野府城志』にも見られる。 次の「太陽庵」は、現在も一宮市にある妙興寺の塔頭で、『全国寺院名鑑(中部編)』によると、永正・大永年間(1504―1527)に建立された臨済宗の寺院である(妙心寺末)。ここには「保童丸」という薬が伝えられていた。 尾張藩の官撰地誌で、宝暦二年(1752)成立の『張州府志』には次のようにある。(原文は漢文)。「僧隠居し可笑軒と曰う。児を療するを以て名を得る。府下に出て召され廃宅を賜う。寺号久法寺と為す。専ら小児を療す。可笑軒後に住僧となる。還俗して医を為す。今太陽庵猶其の方を伝う。製薬し之を施す。」 先の『尾張名陽図絵』久法寺の記述にも「可笑軒」と号する僧侶の名が見える。字は異なるが、『尾張名陽図絵』にあらわれる「泰陽庵」は妙興寺の塔頭ということからも「太陽庵」と同じ寺院と見て良い。 『張州府志』同様に『尾張名所図会』にも、太陽庵では「むかしから保童丸の法を伝えて売薬す」とあり、また、「可笑軒」が去った後も、その製法は失われていないとある。 これらから久法寺「保童円」と太陽庵「保童丸」が同一の薬であるとは断言できないが、ほぼ同類の薬と判断して良いだろう。 氏長山真広寺は、浄土真宗の寺院で、『全国寺院名鑑』によると、かつては蒲焼町筋(名古屋市中区錦)にあったが、戦災により現在の地(名古屋市中区新栄)に移転した。この寺の「保童円」は「楠地蔵尊御夢想」の薬だという(『金鱗九十九之塵』)。 総見寺(臨済宗妙心寺派)は、天正十一年清洲に建立されたものが、慶長一六年名古屋築城に際し現在地に移転したものである(『全国寺院名鑑』)。『那古野府城志』によると、寺院の外で移転前の所在地名である「大しま」という看板だけだして「保童円」を販売していたらしい。表 「保童円」一覧薬名販売者資料名保董円法雲山金剛寺金鱗九十九之塵保童円法雲山金剛寺尾張名陽図会保童円桂昌山久法寺尾張名陽図会保童丸太陽庵張州府志・尾張志尾張名所図会保童円氏長山真広寺金鱗九十九之塵保童円景陽山総見寺金鱗九十九之塵那古野府城志「保童円」と「虫封じ」 そもそも「保童円」はどのような薬なのか。これについては、坂井賢太ら〔2005〕が興味深い報告をしている。それによると、「五疳保童円」・「保童円」は江戸時代以来の最も代表的な小児薬であり、室町時代から江戸時代の多くの処方集に収載されている〔坂井ほか 2005 161〕。これらの薬は、中国の文献に記載されている薬で、不消化に対する処方がされているものであったが、日本においては「虫」に対応する処方が現れているという〔坂井ほか 2005 161〕。ここでいう「虫」は「疳の虫」のことである。「疳の虫」は不消化物から生まれた虫と考えられ、この虫を駆除する形での処方が組まれていたのである〔中村,遠藤,田村 2004 358〕。すなわち、この場合「疳の虫」は、いわば寄生虫のような実体として捉えられていた。 その一方で、「疳の虫」は霊的存在として儀礼を行うことにより身体から出すことができると考えられていた。それが、現在でも愛知県の寺社で多く見ることができる、いわゆる「虫封じ」行事である。愛知県では他にも多くの寺社で「赤丸神事」「井戸のぞき」という「疳の虫」を追い払う行事が行われている。また、虫を出す灸も行われていた。細野要斎による随筆『感興漫筆』の安政三年(1856)三月の記事には、小牧市田に所在する真福寺(臨済宗妙心寺末)における「薬師夢想」灸について記されている。「労症と

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