GLOCAL Vol.7
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2015 Vol.72015 Vol.72015 Vol.72015 Vol.75奨励策を批判し、反軍隊・反愛国主義を掲げて平和運動に参加するような女となれば、なおさらのことである。とはいえ、ペルティエの最大の「瑕疵」はその二重の「裏切り」にあったように思われる。貧しく搾取される労働者階級及び抑圧・差別される「女性階級」から、ペルティエは「脱出」しようとし、実際ある部分それに成功した。そして次のように公言する。「私はずっと変わらずフェミニストだった。死ぬまでフェミニストだろう。だが私は今あるがままの民衆も女性も嫌いである。彼らの奴隷根性が私を憤慨させる」と。労働大衆を疎み、女性たちを嫌いだと言い放つ「社会主義フェミニスト」など、あってはならない存在だろう。現代ならば、強者の論理に取り込まれ、女性の「男性化」をめざす近代主義の、「植民地宗主国」フェミニストとの批判も聞かれそうだ。だが、すべての諸個人の自由と平等というペルティエの徹底した個人主義と普遍主義は、もはや不要なのか。私はそうは思わない。弱者を助けるためにではなく、また属する集団・共同体の大義のためにでもなく、個々人が自分を苦しめる搾取・差別・排除を見据え、それに対して立ち上がり闘い続けることの重要性を、ペルティエは訴え、実践した。だが、そうした諸個人の「共闘」の手前で挫折してしまった。そこにペルティエの不幸があったと言わなければならない。主要参考文献Bard, Ch., Les filles de Marianne. Histoire des féminismes 1914-1940, Fayard, 1995.Bard, Ch. (dir.), Madeleine Pelletier (1874-1939): Logique et infortunes d’un combat pour l’égalité, Côté-femmes éditions, 1992.Gordon, F., The Integral Feminist: Madeleine Pelletier, 1874-1939, Feminism, Socialism and Medicine, University of Minnesota Press, 1990.Maignien, C., Madeleine Pelletier: L’éducation féministe des filles, Syros, 1978Sowerwine, Ch., Les femmes et le socialisme. Un siècle d’Hisoire, Presses de la Fondation Nationale des Sciences Politiques, 1978.Sowerwine, Ch. & Maignien, C., Une Féministe dans l’arène politique, Editions ouvrières, 1992.有産階級を前提にしながら「抽象的個人」として打ち立てられたものである限り、「差異」は排除・無視される。近年ではこの「普遍主義」への批判が高まり、女性の現実とアイデンティティを軸にした運動・理論が重視されるようになった。ペルティエは「近代化」論に囚われた「過去のフェミニスト」にすぎないと言われそうだが、果たしてそうだろうか。フェミニズムだけで社会は変革できない現代から見てペルティエが「過去」になるもう一つの側面が、フェミニズムと社会主義諸潮流との関係である。ペルティエは、社会主義諸派が統一して1905年に成立した「フランス社会党」(正式名称「労働者インターナショナルフランス支部、SFIO」)に1906年初頭に入党し、極左のエルヴェ派を代表して党常任運営委員会にも参加している。さらに、ロシア革命後、社会党の分裂によって結成されたフランス共産党にも加わった。社会党大会では女性参政権の動議を可決させ、選挙では社会党から非合法の立候補を行った。1922年には『共産主義ロシアへの危険な旅』を著して、社会革命がもたらす女性解放の側面を評価している。しかし、後に「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚」と言われるように、社会主義者の中にはプルードン流の「女嫌い」や、フェミニズムをブルジョワ女性の「性戦争」だと批判し、女性解放の課題を遠い未来へと先送りする考え方が広がっていた。実際 ペルティエのフェミニズムは社会党でも共産党でも受け入れられなかった。それでもペルティエは社会主義・革命的諸派の側に留まり、最後までロシア革命擁護の演壇に立った。「私は社会主義者か? このことをいまだ真剣に考えたことはない。…私がわかっているのは、私が社会正義を愛していること、…相続の廃止、あらゆるレベルの教育の無償化、子ども、高齢者、病人にたいする十分な国家的保障、階級の区別も金銭崇拝もなくなることである。…私はこの正義の問題として、平等な待遇を受ける女性の権利の問題として、フェミニズムを闘ってきた。」ペルティエは社会主義のあれこれの教義に拘ったわけではない。個人個人が社会の中で平等に生きる権利を獲得すること、この社会正義の実現のために全方位で闘いに参加することが重要だと考えたのである。教権主義と闘い、自由な思考を発展させるためにフリーメイソンに加わり、結婚や家族制度の抑圧を告発し、個人の自由な生き方や感性を発展させることをうたうアナキストたちと連携したのもそのためであった。「産む産まないは私が決める」第二波フェミニズムの重要な課題の一つ「避妊・中絶」問題に、20世紀初頭において命がけで取り組んだのもペルティエらラディカル派フェミニストであった。「個人は、自らの望むように生き、子を産み、あるいは産まない絶対的権利をもつ。国家の利害で諸個人の自由を制限するなら、もたらされるのは常に幸福ではなく不幸である。」とペルティエは言う。『中絶の権利』を出版し、自ら開業医として女性の出産や治療に携わったペルティエは堕胎罪の嫌疑をかけられ、ついに1939年逮捕される。裁判沙汰を避けるため「責任能力なし」として精神科病院送りとなったペルティエは、その年12月、看取る家族も友人もいないこの収容施設で死去した。女性を「産む機械」に喩え、「わがままな女性」を鋳直すべく、子宮頸がん予防ワクチン接種とセットで「女性手帳」を配付し、母性の社会的責務を自覚させようとする国家政策が進む現在、ペルティエらが百年以上前に開始した闘いは、いまだ終わっていない。嫌われるフェミニスト科学や医学界、及び政治の世界という「男の世界」にふてぶてしく割り込んだフェミニストは、おそらくペルティエでなくとも嫌われたであろう。それが「女らしい」服装も行動も拒否し、結婚・家族制度を否定し、出産

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