GLOCAL Vol.6
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3国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 准教授小林博行(こばやし ひろゆき)1996年総合研究大学院大学国際日本研究専攻修了。博士(学術)。京都大学人文科学研究所助手を経て、2004年より現職。2013年夏から1年間、北京の外交学院で日本語、日本事情などを教える。専門は科学史。黄宗羲の授時暦研究文津館に行く『授時暦故』の「故」には、「古い」という意味と、「ゆえ」もしくは「理由」という意味があるように思われる。「典故」や「故実」というときの「故」とだいたい同じと考えてよいであろう。1995年発行の『北京図書館普通古籍書目』(自然科学門)には2点の『授時暦故』が著録されている。一つは民国12年(1923)の嘉業堂叢書本、もう一つは「民国間抄本」で「摘抄授時暦草」を附すという。前者は刊行され、日本にも所蔵する機関があるが、後者は写本で影印もないため文津館に行かなければ見られない。写本『授時暦故』に『授時暦草』の抄録が附されているという記載は私の目を引いた。『授時暦草』という書物は、清初まではあったけれどもその後失われて現存しないといわれる。梅文鼎は清初にこれを見た一人だが、彼によれば『授時暦草』には計算例と図と表があり、授時暦の方法の根拠について多くのことが書かれていたという。明代に唐順之が手に入れたのはこれと似たものだったろうと私は想定しているのだが、残念ながらそれも残っていない。今日『授時暦草』のたとえ一部でも残っていれば、明代後期から清初までの時期に授時暦がどのような形で伝えられ、どのように研究されたかについて重要な手がかりとなるにちがいない。もしかすると、そ授時暦への関心北京の中心部にある中国国家図書館の文津館(古籍館)に、『授時暦故』という1冊の写本がある。著者は黄宗羲といい、明末清初を代表する学者の一人として知られる。儒学思想と歴史学で傑出した仕事をした黄宗羲は、かたわら天文学や数学などの分野にも通じていた。『授時暦故』は、元の郭守敬らによって編纂された授時暦についての考察である。授時暦は中国の暦法のうち最も優れたものとされ、その施行期間は元の至元18年(1281)から明初の改編をはさんで明の滅亡(1644)にいたるまで、きわめて長期にわたる。黄宗羲は、滅びた明の諸制度を文字に遺す仕事の一部として授時暦の研究を手掛けたのであろう。文津館の『授時暦故』について私が知ったのは、もうずいぶん前のことである。その頃私は、それまで部分的にしか見ていなかった授時暦について一度通して理解しておきたいと思い、『元史』暦志を初めとする関連資料を少しずつ読んでいた。授時暦は、朝鮮王朝においても改編されたかたちで施行され、日本ではやや遅れて江戸時代に多くの研究がなされた。有名な渋川春海の貞享暦も授時暦を基礎としたものに他ならない。施行期間の長さに加えて、東アジア全体にわたるこうした空間的広がりは授時暦の注目すべき点の一つである。私にとって授時暦が興味深く思われる点はもう一つある。それは、この暦法は元代に編纂され、明初に改編された後、その詳細についての伝承がいったん途絶えたらしいということである。授時暦に限らず、暦法は一連の計算手順としてまとめられており、天文台の専門家はこれにしたがって計算することで毎年のカレンダーを作ることができる。しかし与えられた計算はできても、その手順の根拠となる数学的な考え方や、数値の天文学的な意味はしだいに分からなくなってしまう。明の嘉靖29年(1550)ごろ、唐順之という学者が授時暦に関する専門的な質問を天文台の役人に投げかけた。しかし、まともな返答は得られなかったらしい。落胆した唐順之は、暦法の学問はいまや「絶学」となったと嘆いた。その一方で唐順之は、天文台に秘蔵されていた一篇の書物を手に入れた。そこには授時暦を編纂した郭守敬の方法の根源が書かれていたという。唐順之は、それを頼りに自ら授時暦を研究し始める。黄宗羲の時代から100年ほど前のことである。しかし、一度失われた考え方をどのようにして復活することができるのだろうか。新たに理解しなおすことができたとしても、それがもとの考えと同じかどうかはわからない。知識や方法は文字で伝えることができるかもしれない。しかし背後の考え方はどうやって知りうるのだろうか。

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