GLOCAL Vol.6
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1国際人間学研究科国際関係学専攻 教授青木澄夫(AOKI Sumio)1974年、富山大学文理学部人文学科国史学専攻卒業。民間会社、ナイロビ日本人学校勤務などを経て独立行政法人国際協力機構(JICA)に勤務。2004年から現職。専門は日本とアフリカ・東南アジア交流史。著書に『放浪の作家安藤盛と「からゆきさん」』『日本人のアフリカ「発見」』『アフリカに渡った日本人』、共著に『アフリカ学事典』『アフリカから学ぶ』『アフリカ学入門』など私の学生時代海外を夢想し続けたわが青春や中国文学者の吉川幸次郎が松本に来た時は、授業を抜けて聴きに行った。当時の教員は寛大なもので、こうした高校生の行動を容認してくれた。西堀には『南極越冬記』、吉川には『漢の武帝』(ともに岩波新書)にサインをしてもらった。二人とも京大関係者だった。人類学者の今西錦司は、ヒマラヤ登山のパイオニアの一人だったが、アフリカでもフィールド・ワークを開始していた。今西の書を通じ、私の関心は次第にアフリカと人類学へと移っていった。好きなことには夢中になるが、嫌いなことには全く関心がなかった。山岳部の顧問で同郷の先輩でもある物理の教員とは、西穂遭難後の部の運営で対立し、授業中は一番前で山岳雑誌を読んでいた。今では懇意にしていただいているが、全く生意気で嫌な生徒だった。成績は振るわず、430名中150番から250番の間をうろちょろしていた。経済的理由から国立大学以外の受験は不可能だったが、受験に必要な数学2Bのテストは200満点中20点のできだった。入学時から特別奨学金3,000円(1,500円のみ返済)を受給していたが、家庭の事情を知った山岳部顧問と担任の配慮で、高校の同窓会が運営している奨学金1,500円(要返済)を受給することができた。そのお蔭で本を買え、また山にも行けた。大学進学も、奨学金なくしてあり得なかったが、成績不良のためその選から漏れた。長中学一年生の時、初めて自分で本を買った。実家(信州)から松本市の書店へ出かけ、手に入れたのがNHK取材班の『南アメリカ』だった。同じ日、あわせたように高校生の兄が同じシリーズの『アフリカ』を買ってきてくれた。兄から教えてもらった東京の丸善に、イギリス製の「南アメリカ」と「アフリカ」の地図を注文し、毎夜眺めながら、「わが夢は 遠くアフリカ 南米へ 地図の上にて 心弾む」と、まだ見ぬ遠い世界を夢想していた。高校生の兄は、チベット、中央アジアが好きで、河口慧海やヘディンにあこがれ、『人民中国』を購読していた。私もソ連大使館が発行していた月刊グラフ誌『今日のソ連邦』を定期購読した。何となく社会主義に憧れていた時期だ。社団法人『アフリカ協会』が『月刊アフリカ』と言う雑誌を刊行していることも兄から教わった。東京の事務局にバックナンバーを欲しいと手紙を書いたら、段ボール箱ひと箱の雑誌が送られてきた。続いて請求書も送付されてきた。てっきり厚意で寄贈してくれたものだと思っていた中学生は、事務局に泣きついて、その後の定期購読を条件にただにしてもらった。『月刊アフリカ』の創刊号が私の手許にあるのはこうした理由からで、昨年刊行された『アフリカ学事典』の挿入写真としても利用した。言語学者の西江雅之の講座でスワヒリ語に触れたのも同誌によるものである。後に、このアフリカ協会から私は1年間ケニアに留学させてもらうことになった。松本の高校に入学後、兄を追って山岳部に入部した。2年生の夏に、西穂高岳を集団登山中の同学年生11名が落雷で死亡した。私の同級生も二人命を失った。この事故の数日前、大学山岳部の兄は、前穂高岳で滑落して入院していた。この山岳事故が私たちに与えた影響は大きく、その後自殺をした人や入院治療のために留年せざるを得ない学生もいた。今でも命日の8月1日には、同期の代表が高校に建てられた慰霊碑に集まっている。落雷事故のため、山岳部に活動自粛指示が出されたが、主将になったばかりの生意気盛りの高校生には、その社会的責任が理解できなかった。ヒマラヤ関連の書籍を読み漁りながら、密かに山に向かった。松本の古本屋には山岳図書が並ぶ。日本山岳会が、1956年に日本人として初めて8,000mの高峰の登頂に成功した登山報告書『マナスル』は2巻で3,000円だった。当時ラーメンは60円。古本屋の親父に2回払いの月賦にしてもらい、ようやく手に入れた。ヒマラヤに魅せられた高校生は、ネパール語を学ぼうとしたが、当時は日本語・ネパール語の辞書がなかった。幾多のヒマラヤ遠征隊がネパールでお世話になっているにも関わらず、辞書がないのは情けないと、山岳雑誌『岳人』に投稿し、初めて原稿料をもらった。松本では、時々文芸春秋社などによる文化講演会が開催された。南極探検の西堀栄三郎

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