GLOCAL Vol.6
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9国際人間学研究科 国際関係学専攻 講師桃井治郎(ももい じろう)1971年生まれ。中部大学大学院国際関係学研究科中退。博士(国際関係学)。中部高等学術研究所研究員、在アルジェリア日本国大使館専門調査員を経て、2011年より中部大学講師。主たる研究領域は、国際関係学、マグレブ地域研究、平和学。反テロリズムの思想―アルジェリア人質事件とアルベール・カミュの「反抗」論し、1962年、ついにアルジェリアの独立が果される。独立後は、FLN一党制のもと、社会主義経済路線を歩むが、1980年代に入り、政治腐敗や経済不振など国民の不満は蓄積していく。1988年に発生したアルジェでの住民暴動を受けて、当時のシャドリ大統領は複数政党制を含む政治改革を実行する。複数政党制のもと、1990年に地方自治体選挙が行われ、この選挙で、FLNは大敗し、代わって、イスラム救国戦線(FIS)が勝利を収める。FISは1991年の国民議会選挙でも勝利を収めることになる。これに対し、既存権力の喪失とイスラム主義政権の誕生に危機感を強くした軍部は、1992年、クーデターを起こし、FISに妥協的なシャドリ大統領を解任し、選挙プロセス・憲法の停止、緊急事態令の布告、FISの非合法化とFIS指導者の逮捕を実行していく。この後、FISの一部は過激化し、軍との間で壮絶な戦闘が始まることになる。アルジェリア人質事件の発生2013年1月16日早朝、北アフリカ・アルジェリア南東部にあるイナメナスの天然ガスプラントおよび居住区に32人の武装集団が侵入し、内部にいた外国人を人質として施設に立てこもる事件が発生する。日本でも大きく報道されたいわゆるアルジェリア人質事件である。武装集団は、アルジェリア軍の後退や移動車両の準備、収監されている仲間の解放などを要求する。一方、アルジェリア政府は、事件発生当日にウルドカブリア内相が「テロリストの要求や交渉には一切応えない」と発言するなど、強硬な姿勢を明らかにする。2日目の17日朝、アルジェリア軍は武装ヘリコプターなどによって居住区に対する攻撃を開始する。一方、攻撃を受けた武装集団は、正午頃、プラント区域のメンバーと合流するため、外国人人質を乗せた6台の車で居住区を飛び出し、プラント区域に向かう。この車両に対し、アルジェリア軍は一斉攻撃を行う。武装集団による自爆かアルジェリア軍による攻撃かは不明ではあるが、6台の車はすべて大破・炎上する。この攻撃で、外国人人質36人のうち8人が救出されたものの、26人が死亡、2人が再び武装集団に拘束された。武装集団側は、16人が死亡、3人が拘束、2人がプラント区域に逃走した。プラント区域では、その後も外国人を人質に武装集団による立てこもりが続く。3日目の18日、アルジェリア軍は突入作戦を開始する。19日、アルジェリア軍は武装集団のメンバーをすべて掃討し、事件は終結する。プラント区域での犠牲者をあわせると、事件の犠牲者は40人に及んだ。そのうち10人が日本人であった。武装集団側は、32人のうち29人が死亡し、3人がアルジェリア軍に拘束された。暴力の連鎖なぜこのような事件が発生したのか、その原因を理解するためには、アルジェリア史について知ることが不可欠であろう。以下では、ごく簡単にアルジェリア現代史について見ていく。1954年11月1日、アルジェリア全土で、軍隊や警察を目標とする襲撃事件がほぼ同時的に発生する。国民解放戦線(FLN)による武装蜂起、すなわちフランス植民地アルジェリアにおける独立武装闘争の始まりであった。FLNによる武装蜂起に対して、フランス治安当局は徹底な弾圧を加える。しかし、これがFLNによるさらなる武装闘争の過激化を招き、治安当局とFLNとの戦いは泥沼の状態に陥っていく。国際社会からの圧力もあり、1959年、フランスのドゴール大統領はアルジェリアにおける民族自決の原則に言及

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