GLOCAL Vol.4
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12かったことである。こうした理論主義の傾向は、とくに英米では強かった。■経済の停滞と社会の不安定化 しかし、世界的な経済不況が続き、政治情勢も不安定化する中で、かつての好況時での、理論を都合のよい「現実」に適応するだけのゲームのような研究よりも、「現実」を理解し、問題解消することが切実に望まれるようになっていることは確かである。戦後の平和の中で棚上げされてきた様々な問題、領土問題、原発問題、平和憲法、米軍基地問題等々、また新たに生じてきた世界的経済不況、社会問題等に対して。 こうして、外部から加えられる破壊的な力と、また、内部から湧き起こる不満に、日本のみならず、アメリカ、EUその他諸外国が揺さぶられている。■ 「メディア論」の混乱と国際情勢の混乱 メディア論においても、冷戦終結後のインターネットの普及後、かつてのメディア論をなしていたような、精神分析理論や文化研究理論を当てはめるだけのゲームは通用しなくなった。 その代わり、インターネット、スマートフォンで次々に起こるイノベーションによってもたらされたネット文化の速いスピードで起きる変容を理解することが求められている。こうした傾向の研究は、「現実」についていくだけで精一杯になっているところがある。これは、一時的に流行したサービスが廃れれば、それについての研究も廃れるということが起きることを意味する。例えば最近では、ケータイメールや長電話についての若者文化研究などを挙げることができる。 この変化の速さについては、文化、社会の中だけを見ていては分からない。イノベーションは、主にアメリカのシリコンバレーからやってくるものであり、シリコンバレーを支えているのは、アメリカという超大国であり、グローバルな新自由主義経済である。 戦後の大衆消費社会で支配的だったテレビ、新聞、雑誌などのメディアは、とりわけ日本の場合、主に日本語という障壁のために、ドメスティックなものに留まり続けた部分がある。江戸期の鎖国が文化的豊穣さを生んだように、昭和のバブル期もまたこの時期特有の文化的豊穣さを生んだのかもしれない。 しかし、これはイノベーションを欠いた一種の停滞を意味していたのかもしれないということは考えなければならないことであり、間違いないのは、メディア論という学問分野においては、理論が鍛え直されるために必要な緊張感が欠けていたことである。 しかしいまや、国際情勢、国家が保障する平和の下で、安定した大衆社会だけを研究しておけばいい状態にはもはやない。不安定な社会を外から揺さぶる、アメリカという国家の戦略、新自由主義経済、イノベーションを担う生産集団の力は、グローバルに広がり、日本もまた、外部からやってくるその力に揺さぶられ、社会が流動化、不安定化している。TPPの交渉に端的に表れているように、日本という国家が維持できる、社会を保護するために必要な障壁は、グローバル市場経済においては、どんどん崩されつつある。 つまり、社会はかつてのようには国家に保護されておらず、グローバルな領域へと過剰に露出されている。そしてこれは規制緩和、市場の自由化、国営事業の民営化など、国家を縮小する新自由主義政策がもともと目指しているものの結果である。 ではこのことは、国家の役割が小さくなるということを示すのだろうか。そうではない。国家が放置する領域(例えば格差社会)が拡大する、あるいは、国家の闇の領域での非公式な活動、あるいは国家がもはや管理できない外部領域が増えるということを意味する。後者の例としては、タックスヘイブン(租税回避地)というインフォーマルな経済領域の世界的拡散や、戦争の民営化を担う軍事請負会社の活動を挙げることができる。 メディア、インターネットに関して言えば、最近起きた、テロ対策という大義のもとに、シリコンバレーの大手IT企業が提供するサービスを通して世界中のユーザーを監視していたアメリカの諜報機関NSAの実態についての内部告発事件は、アメリカという国家の非公式な諜報活動(オバマ政権は現時点でもなお、合法的な活動と主張している)に、世界中の社会が過剰露出されていることを暴露した。■ジャーナリズムとグローバル化 社会のこの過剰露出は、社会の活動がグローバルなインターネットに依存する分、様々な場面で問題を発生させている。 日本におけるその兆候の一つとして、日本の政治家らの不用意な発言、行動が、最近、外国の新聞ですぐさま批判されるようになったことを挙げることができる。猪瀬東京都知事によるオリンピック候補地のイスタンブール批判が米ニューヨーク・タイムズなどで報じられ、橋下大阪市長の従軍慰安婦についての発言が英BBC、米ニューヨーク・タイムズ、英ガーディアン、独シュピーゲルなどで報じられ、安倍首相が迷彩服で戦車に乗り込んだ写真が、独シュピーゲルに掲載された。 戦後50年続いてきた、保護されたドメスティックな日本の村社会で許されてきたこうした発言、行動は、いまやネットを通じて、瞬時にグローバル・スタンダードで測定されコメントされるようになってきている。■大学院での教育について このようなことは、日本の「クールジャパン」と呼ばれる文化政策についても言える。日本のアニメは、そもそもグローバルな市場で需要があるから他国に輸入されていったのであって、クリエーターや産業、国の意図によるものではなかった。しかし近年、アニメを国が経済的に支援するということになりつつある。ここで問題になるのは、日本の慣習、文化が反映されているアニメを国策で輸出するというとき、どこまでグローバル・スタンダードに沿った形でそれが行われるのかということである。アニメについての専門家の意見によれば、日本のアニメは世界一だというような過度な自尊心しかなく、それを受け入れる国々の固有の文化に配慮する意識が非常に欠けている。 現在、ジャーナリズムコース専攻所属のチュニジアからの留学生の研究テーマは、日本のアニメがアラビア語圏で放送される際に施されるローカリゼーションについてである。アラビア語圏では、日本のアニメがアメリカのディズニーアニメとともにアラビア語の吹き言語文化

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