GLOCAL Vol.3
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4人文学部コミュニケーション学科齋藤宏保(SAITO Hiroyasu)1970年 慶應義塾大学法学部法律学科卒業・日本放送協会入局2004年 日本放送協会定年退職・東京農工大学大学院客員教授2005年 本学教授『重い遺産』(祥伝社) 『森が危ない』(共著)(日本放送出版協会)『飲み水が危ない』(共著)(角川書店)不人気の原因になっているようだ。 そしてニュータウン内の幅の広い道路も暗くて冷たいイメージを形作っているように思う。確かに車社会の論理からすれば車道は広い方が良い。しかし車道が広いということは道路向こうの地区とのコミュニケーションを阻害、賑わいを分断してしまう。住宅地の道路に求められるのは憩であり、安全であり、安心である。欧米では大都市の中心部や住宅地では、車優先から人間優先のまちづくりが行われている。この車優先の考え方もまちの魅力を無くしている要因に思われる。 では、どうしたら元気を取り戻すことができるの。そこで私は、中部大生の若い力を投入することによって、まちが少しは元気になるのではないか、そのお手伝いができないかと考えたのである。高齢者と中部大生との協働のきっかけ ニュータウンの高齢者と中部大生との連携は、2011年1月、知人からニュータウンで最も活動的な高齢者クラブ「いちょうの会」の当時の会長を紹介されたのがきっかけである。 それから2か月後の3月下旬、小生のゼミの3年生9人と高齢者クラブの方々やニュータウンの住民との最初の顔合わせを行い、正式に新学期から、ゼミの授業としてニュータ少子高齢化が急速に進む高蔵寺ニュータウン 少子高齢化が加速、元気がない高蔵寺ニュータウン。いつから元気を失ったのか。 ニュータウンで最初の入居が始まったのが1968年、今から45年も前のことである。名古屋のベッドタウンとして、サラリーマンに人気の的だった。しかし人口は、計画の8万1000人に達することなく、1995年に5万2127人をピークに減少し始め、2013年4月には4万5413人と18年間で6714人も減少してしまった。高齢化も急速に進展し、現在は26.13%。その高齢化を上回るスピードで進んでいるのが少子化で、昭和60年に1万5180人いた14歳以下の子どもは、2013年4月1日現在で5548人にと約1/3にまで激減してしまったのである。 子どもたちの元気な声が聞かれなくなった高蔵寺ニュータウン、住民の急速な高齢化に建物の老朽化も合わさってすっかり活力のないまちになってしまった。 こうした中で、7月6日(土)ニュータウンで開かれたのが、国際人間学研究科主催のシンポジウム「高蔵寺ニュータウン~持続的まちづくりへの取り組み~」であった。元気のないイメージが定着 それにしてもなぜ高蔵寺ニュータウンの魅力がなくなったのか。 人口が増えなかった要因の一つには、ニュータウン内に鉄道の駅がないことがあげられる。日本3大ニュータウンの東京の多摩ニュータウンにしても大阪の千里ニュータウンにしても、鉄道の駅がニュータウン内に複数作られ、さらにモノレールの駅もある。 もちろん高蔵寺ニュータウンにも鉄道の計画がなかったわけではない。名鉄小牧駅と桃花台ニュータウンを結ぶ新交通システム「桃花台線(ピーチライナー)」が1991年3月に開業、当初の計画ではJR高蔵寺駅まで延伸される計画であった。しかし桃花台ニュータウンの人口の伸び悩みで採算があわず、多額の借金を抱えたまま、2006年10月に廃止となってしまった。公共の足は、名鉄のバスしかなくなってしまったのである。 また丘陵地帯が開発されたため当然坂が多い。入居した頃は高台からの景観を気に入っていた住民も、高齢になるにつれ坂は負担になっていった。実際にニュータウンのショッピングセンター・サンマルシェの標高(東京湾からみた高さ)104㍍に対し、高森台中学校は159㍍とかなりの高低差があることが分かる。坂が難儀なのは歩行者にだけではない。冬は凍結すると車の安全走行を妨げ、ガードレールにぶつける車が跡を絶たない。こうして素晴らしい景観を実現した坂も高齢になるにつれ、歩いて疲れる、冬は凍結して走れない、迷惑な坂になっていった。これも『高齢者と中部大生の連携で、高蔵寺ニュータウンに活力を吹き込む!』

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