GLOCAL Vol.2
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2013 Vol.22013 Vol.27とサウサムプトン程度であった。しかも、両都市の投票率はそれぞれ地元有権者の44.4パーセント、42パーセントにすぎなかったのだから、都市計画に対する強い関心が地元有権者の間に浸透していたと推測することは難しい8)。むしろ市民は、市政に無関心であり、社会問題に強い関心を示しはしなかったのである9)。おわりに:「階級なき社会」の到来? さて、こうした戦後復興期の都市計画が全国レヴェルで行き詰まりをみせた顛末は、アトリー労働党政権にとって失望のはずであった。労働党において都市計画を推進した者たちは、たしかに確固とした展望を持っていたようである。都市計画大臣シルキン自身、より民主的で新しいイギリス国家への転換を図ることを忘れはしなかった。1949年、シルキンは国民を包摂していくような計画立案過程の必要性を都市計画家らを前に次のように強く説いたことでも知られている。私は市民を誘導していく必要があると考える。市民は[都市が]一体どうあるべきかについて必ずしも明確な見解を持ち合わせていない。我々は市民の要望や意見を参考にしていかねばならないし、計画されるものについて理解してもらう機会をも提供しなければなるまい10)。 このように都市計画を市民との距離を縮めながら進めていこうとする背景には、労働党が戦後改革の先にみた理想とする戦後の社会像があった。社会主義を最も標榜した保健大臣べヴァンは、王立建築家協会の会議において、戦後あるべき共同体の理想像を次のように説いた。我々はある場所にこれみよがしな生活を送る者が住み、そして別の場所には明らかに労働者階級の人たちが住むと分かるような社会を持つことはできない。我々は異なる所得階層の混在する共同体を持たねばならない。農家が肉屋と隣接し、医者と患者が同じ通りに住んでいるよう市民の反応 それでは一般市民の関心態度はどうだったであろうか。近年、現代イギリス都市史研究において、1940年代における一般市民の都市計画に対する多様な関心態度のあり方も計画を後退させた一つの原因として指摘されている。一般市民の関心態度・受け止め方の史料的裏付けは極めて困難ではあるけれども、計画展示会の入場者数、社会学者による市民調査の記録、地元新聞への投書、地方選挙における有権者の投票行動・投票率の分析から可能な限り明かにされている。 例えば1945年10月に2週間にわたって開催された戦災都市コヴェントリー市の都市計画展示会を例にとると、入場者総数が市人口のほぼ4分の1に相当する約57,500人を数え、市民の計画への関心の強さが指摘されている6)。戦災を被らなかった地方都市ウースター市の場合では、1週間にわたる1944年の展示会では7,000人、1947年の展示会では35,000人もの入場者数を記録した。これは市人口の約半数を占める数であった。この数字は市民の都市計画への高い関心度を示す一つの指標といえよう。しかしながら、反応をつぶさにみるならば、同時期の市民調査インターヴューでのたいての市民の声は、「だけどそれって本当にできるの?」といった内容が多く、多くの人びとは計画内容に具現された理想社会が戦後ただちに到来することについて懐疑的だったといえそうなのである7)。 地元新聞への投書においても、計画の持つ意味が没個人化の全体主義・独裁主義を彷彿とさせるといった、かなり否定的な見解もみられた。またある市民は、歴史都市に固有の古い町並みや愛着ある建築物が取り壊されるような再建計画内容を「スキャンダル」と受けとめ恐怖を露にした。また、「中流階級が楽しめるような『贅沢』な文化施設」より「もっと切実な住宅」を希求する声もみられた。そして何より、計画の実現化に対し「誰がお金を払うのか?」といったより現実的な発言も散見されたのである。労働党が圧勝した1945年総選挙後の地方選挙において都市計画が争点に挙がったのは、コヴェントリー写真4 戦時中のミドルスバラ市街地(上)とロックの再建計画モデル(下)M. Lock, The Middlesbrough Survey and Plan, 1946, p.397.

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