GLOCAL Vol.2
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6会的・経済的再建を実現する役割をも担っていた。戦時期の建築家・都市計画家たちは、自ら社会改革者としての強い自負を持ち、新しい理想都市社会の建設に意欲を燃やした(写真1)。戦後再建期、実に全国レヴェルで約130都市以上の計画が続々と立案された事実はその熱意を物語ろう。イギリス国民もこうした理想都市の到来に高い関心を示したかのようであり、1940年代初頭は、まさに変革の機が熟していたかのようにみえた2)。都市計画家マックス・ロックの「民主的計画」 ここで戦後復興期に活躍した都市計画家を取り上げよう。1944年にイングランド北東部に位置する製鉄工業都市ミドルズバラMiddlesbrough再建計画を作成したマックス・ロックMax Lock(1909−1988年)は「住民と一緒に立案する都市計画」を提唱した都市計画家として知られている3)(写真2)。ロックは社会学者、地理学者、経済学者、建築家らと共に「共同調査チーム」を形成し、異分野の専門家らとの連携を重視し、都市計画を社会的領域に押し広げた。「住民との対話」を強く望んだロックは、計画立案過程において、地元利害関係者団体やクラブ・協会の代表者、市内23世帯ごとに選定された総計1,387世帯と1,209人の若者への面会調査の実施のほか(写真3)、さらに地元の集会の場にも顔を出し、ミドルズバラ市の計画構想について意見交換を図った。ロックの市民への忠実ぶりは、彼らの要望を最終計画案にできるだけ採用しようとしたコミュニティ計画に如実に示された。労働者階級が多く住むミドルズバラ市は、生活関連諸施設の欠如や貧困、地理的孤立といった典型的な都市問題を抱えていた。こうした問題の解決法として、各々の住区内に諸施設を均等に提供することが既存の都市計画理論(近隣住区理論)4)に適っているとみなされていたが、ロックは、こうした理論に拘泥することなく、むしろ各住区の構成員がみせる生活パターンや、地域社会が実際に発展しつつある様を活かした計画を立案した。それは、人びとがより豊かになればなるほど、彼らが、社会・娯楽活動の場を他の住区からも臨機応変に選択・利用していくだろうと考え、各住区間のアクセスをより柔軟な枠組みの下に置き、住民生活に重点を置いたコミュニティ計画を追求したものだった。したがって、ロックは、オーソドックスなイギリス田園都市構想や自己完結型コミュニティ形成志向の都市計画理論に拘泥することなく、ミドルズバラ住民の生活実態や生の声・事実を拠り所とし、住民の要望に沿い、市街地やその他の住区にも容易にアクセスできるような、そして住区「内」よりむしろ住区「間」にこそ社会・娯楽施設が設立されるような独自のコミュニティ計画案を作成していったのである。(写真4)さらにロックは、ワットフォードWatford(ロンドン近郊)で市議会議員(自由党)を務めた経験を活かし、計画省・市当局役人との協議も重ね、そこでも意見・要望を広範に汲み取りながら広く都市計画への支持を獲得していく努力をみせた。ロックはさらにラジオ出演、映画製作、執筆活動、講演会、都市計画展示会を通し、民意に基づく都市計画の重要性を熱心に全国へ宣伝した。ロックのこうした実験的試みは全国メディアでも取り上げられ、彼の「民主的計画」構想は、1940年代半ばに一躍脚光を浴びたのだった5)。写真1写真3写真2Max LockArchitects' Journal29 July 1943

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