GLOCAL Vol.2
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2013 Vol.22013 Vol.211国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻准教授水野智之(MIZUNO Tomoyuki)1999年名古屋大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。『室町時代公武関係の研究』で歴史学博士(名古屋大学)取得。高千穂大学商学部准教授を経て現職。近著に『戦国期の真宗と一向一揆』(吉川弘文館、共著)、『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会、共著)。 mizuno-t@isc.chubu.ac.jpの信任の厚い人物であった。彼らが殺害された理由は秀吉に通じたためであり、これにより羽柴方と織田方の開戦となった。既に信雄は徳川家康と周到な準備をしており、戦いは伊勢方面でなされるものと意識されていた。しかし、美濃勢のうち、大垣城の池田恒興が羽柴方に味方し、犬山城を攻略した。当時の犬山城主中川定成は織田方として伊勢国に向かっており、その隙をねらったのであった。これより伊勢国桑名に出陣していた酒井忠次の三河勢は急いで犬山方面に向かった。 3月17日、徳川勢は楽田・羽黒・五郎丸(いずれも犬山市)を放火していたところ、羽黒の八幡林で羽柴方の森長可の軍勢と遭遇して合戦となった。これを羽黒の戦いという。家康は「今日羽黒乗り崩し数多討ち捕るにつき、早々示し給い候…」(三月十七日付徳川家康書状、徳川美術館所蔵)、「去んぬる十三日、尾州清須に到り、出馬す。同じく十七日、尾・濃の堺羽黒と号する所、池田紀伊守(元助)・森武蔵守(長可)たてこもりあるの所、押し寄せて即時に乗り崩し、千余人討ち捕り候、かの両人らの敗北、前代未聞の躰に候…」(三月二十五日付徳川家康書状写、佐竹文書)と伝えているように、この戦いに勝利した。 その後、秀吉は尾張国楽田に出陣し、4月には「三河中入」として家康の本拠地三河国を目指す作戦がなされた。羽黒の敗戦で責任を感じていた池田恒興、森長可らが先陣を務め、三好信吉(のちの羽柴秀次)を大将として 2012年12月1日、中部大学大学院国際人間学研究科シンポジウム 小牧・長久手の戦いと尾張東部が文化フォーラム春日井において開催された。報告者は藤田達生氏(三重大学教育学部教授)、播磨良紀氏(四日市大学環境情報学部教授)、水野(本学国際人間学研究科准教授)、そしてコメンテーターを三鬼清一郎氏(名古屋大学名誉教授)が務めた。本稿はその報告をもとに執筆したものである。はじめに 本報告は天正12年(1584)、小牧・長久手の戦い時の尾張東部の状況、とりわけ春日井地域に注目して検討するものである。1992年に『長久手町史 資料編六 中世 長久手合戦史料集』が刊行された。この戦いの関連史料が収集・整理され、研究状況が大いに整えられた。2001~2004年に藤田達生氏(三重大学教授)を研究代表者とした文部科学省科学研究費による近世成立期大規模戦争の研究が行われ、その成果として2006年に同氏編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場論上』・『近世成立期における大規模戦争 戦場論下』(岩田書院)が刊行された。ここでは小牧・長久手の戦いの詳細な合戦の実態やそれが全国的規模で戦われた天下分け目の戦いであったという性格が明らかにされた。さらに、2007年に『愛知県史 資料編12 織豊2』が刊行され、新たに確かめられた史料などが紹介された。 このように多くの成果が蓄積されつつある。ただし、文部科学省科学研究費による研究のうち、長久手周辺、尾張西部、北伊勢は綿密な検討がなされたが、小牧および春日井地域など、長久手周辺を除いた尾張東部についてはなお検討の余地がある。長久手周辺は明治17年の地籍図を用い、当時の地形と現在に築かれている史跡の所在地を確かめながら、当時の合戦の推移を考察した。それに対して小牧市から春日井市、名古屋市守山区・名東区周辺はそのような作業を行っていない。それは主に織田・徳川方の動向に注目し、羽柴方の動向には同様の関心を払って検討していなかったことによる。犬山から小牧・春日井、小幡、長久手にかけては数千、数万の軍勢が行き交っており、この一帯を総合的に捉えることが必要である。本報告はそのための一つの作業として、春日井およびその近隣の地名の記された史料を提示し、当時の地域状況を探ることとする。そして、この合戦が尾張国や当該地に及ぼした歴史的意義を考察する手掛りを示してみたい。羽黒合戦から長久手合戦へ 天正12年3月6日、織田信雄(信長の次男)は岡田重孝・津川義冬・浅井田宮丸ら重臣を殺害した。岡田重孝は「別して秀吉公機愛の人なり」(当代記)と伝えられるように、秀吉小牧・長久手の戦いと春日井地域

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