GLOCAL Vol.2
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10原子力・核エネルギーに平和と技術を託し、電力こそ生活の近代化を象徴するものとして原子力に期待や夢を抱いた。そのため、戦後の『恐怖』は後景に退いた。強力な経済主義・国土開発の下、電力供給源=原子力発電所の設置が正当化される。生活の豊かさを実感していく中で、私たちは私生活中心主義・原発依存体制へ、そしてそのこと自体への無関心へと流れていく。 そして、3.11東日本大震災後の原発事故で再び『恐怖』が襲った。『脱原発』言説やデモの急浮上をみる一方、しかし被災地を含めた明確な社会ビジョンは描かれていない。 ところでイギリスの戦後復興期は社会変革ムードの中、国民の強力な支持のもと、福祉国家の誕生をみたとされる。今の日本とは違い、『理想的な社会』が大いに議論された。しかし英国庶民の福祉国家への熱狂的なブームの実態とは、本質をよく知らない表層的なものであり、短命に終わったのも事実であった。 歴史の「事実」は何を教えてくれるのか。私たちは、この災害後に急浮上する言説を十分に吟味し、メディアに流されない自分自身の見解を持つことが大切になってくるのではなかろうか。」 以上のようなパネリストとコメンテーターの発言に対して、会場の参加者から、「震災以降の現地の変化について、さらに説明してほしい」「これから原子力発電について、私たちはどう考えたらいいのか。電力は足りるのか」といった質問が寄せられた。残り時間が少なかったこともあって、こうした質問について十分議論することはできなかったが、この歴史的な震災について、あらためて考えてみる機会をつくることができたと言えるだろう。 なお、復興庁の発表によれば、東日本大震災による死者は1万6872名、行方不明2769名(以上2012年10月31日現在)、負傷による関連死2303名(2012年9月30日現在)、現在も避難している方は32万6878人(2012年10月4日現在)となっている。震・福島第一原発事故(2011/3/11)~ビンラディン容疑者銃殺(2011/5/2)~カダフィ大佐死亡、リビア内戦終結(2011/ 10/20)~沖縄米兵婦女暴行事件(2012/ 10/16)」といった出来事の流れの中に置くことができよう。 日本のメディアでは、9/11も3/11も上記の時空の中で位置づけられることが少なかった。これに代わって突出していたのは、世論や政策態度の基層としての、開発主義あるいは「経済主義」の表明である。3/11以降、日本の財界は繰り返し経済成長のための(大)企業支援の経済政策を主張してきたし、実際、今回衆議院選挙の第一の争点とされたのも、「景気回復」であった。原発の「効率性」は、3/11以後も変わらぬ有力な政策オプションだった。 経済主義にかかわる日本固有の文脈を探れば、大来佐武郎が主導し、当時の一流の経済学者が終戦直前に学派を超えて集った日本本土自活方策研究会に行き当たる。そこから生まれた1946年の『日本経済再建の基本問題』という報告書では、海外の植民地という「自由」な開発対象を失った日本は国内に開発対象を見出すべきだという(町村敬志)。後の列島改造論に代表される「土建国家」、中央集権的な地域開発のモデル、さらにはそうした国内の政治経済構造から生まれた原子力ムラの礎もここに見出せよう。 日本の原子力発電の歴史は、国際関係から見れば、1952年から53年にかけての米ソの核兵器開発競争をうけて「アトムズ・フォー・ピース」(アイゼンハワー)が唱えられたところに始まる。この時期は、朝鮮戦争を背景に、日本の再軍備が進み、日米行政協定が締結され、沖縄に基地が再集中し始めただけではない。1951年 GHQマーカット経済科学局長は、「日本は世界的に不足している資源の供給をふやすために、東南アジア地域の開発を思い切って進めるべきである」と述べて、旧植民地への再進出すら容認したのであった。この時期以降、戦後賠償を戦後のアジア進出の足がかりにするという意志がはっきりと形成されていく。1959年にオリバー・フランクスによって「南北問題」が主張されるまでに、コロンボ会議、バンドン会議などが開催され、「東西冷戦」とは異なる国際関係軸が重要な意味を持ち始める。1960年の新安保までの時期に、日本は「もはや戦後ではない」と宣言し、所得倍増を唱えつつ、国内開発と海外再進出を強力に推し進め、その中で原子力発電に大きな比重を置き始めた。 「経済」「開発」「成長」「景気」といった用語とそれを最優先する思考法(藤田省三のいう「欲望ナチュラリズム」)は、外交や国内の経済社会政策のキーワードとなって日本の戦後の政策思考を覆い始める。原子力ムラや日米関係史という背景だけでなく、国際関係史の中で経済主義を克服する道を探る必要があるだろう。」震災後と原子力へのまなざし 以上の二人のパネリストの報告につづいて、二人の方からコメントをいただいた。■中川國弘氏(NPO「雨にも負けずプロジェクト」代表)からは、春日井市に拠点をおくNPOとして、東北被災地の子どもたちを夏休みに春日井市に招き、戸外で思いきり遊べる体験をしてもらうといった活動をしていることが紹介された。子どもが<戸外で遊べる>という当然のことが、被災地では当然ではなくなっている状況がリアルに報告された。■本内直樹(中部大学国際人間学研究科准教授・イギリス社会経済史)からは、おもに原田氏の報告に対して、次のようなコメントをいただいた。 「『原発ゼロ』主張が『無難』となっている昨今の風潮を相対化してみるため、原子力(核エネルギー)に対する私たちのまなざしを歴史的に概観してみたい。 ある論者も指摘しているように、日本人は1945年の広島・長崎に落とされた原子力爆弾に『恐怖』を見た。しかし高度経済成長期に、私たちは生活水準の向上を夢見て次第に

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