GLOCAL Vol.1
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19は、学生も疲れてしまうし、相対視ができない。そこで、「研究方法論」のようなオムニバス講義が役に立つ。多様な研究分野の方法論を聞き、きわめてパーソナルな研究遍歴を聞いて、自分にあった研究スタイルを模索していく。そういうようにしか、人は自分のスタイルをつかんでいけないような気がする。一人の「指導教員」とばかりいると、その風圧のようなものに圧倒され、窒息しそうになることもあるだろう。大学院の風通しをよくするという意味でも、こうしたオムニバス講義があった方がよい。の濃い論文は書けない。「広い視野」を目指すのはよいが、「広く浅く」になってしまってはいけない。集中的にテーマを深く掘り下げることは、やはり決定的といってよいほどの重要性をもつ。それでもやはり、視野狭窄に陥らないように、ものごとを大きく見渡す姿勢をつくった方がよい。 院生の話を聞いていて、もう一つ強く印象に残ったことがある。講義を担当した教員の誰もが、自らの研究方法やワザについて、そしてそれにまつわる苦労について、惜しみなく、そして率直に述べていたらしい、と知ったことである。 理系には理系の苦労があるのだろうが、文系の大学院は、ことさらに難しさを抱えているように思えてならない。研究スタイルの定型化は、文系においては理系ほど推し進められていない(それでよいと、私は思っているのだが)。研究というのは、そもそもどういうものなのか。論文は、どのように書かれるべきものなのか、歳を重ねても迷い続けているのは、私だけではないだろう。 最近になって思うのは、これも私などがいうべきことではないが、教師としての研究者は、自分が苦しみつつ(楽しみつつ?)勉強している姿を学生に見せればよいのではないか、ということである。それしかないかもしれない。ただ、始終一人の姿を見ているので国際人間学研究科で教え、学ぶ人びと2011年度博士前期課程修了生

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