GLOCAL Vol.1
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12際には事業化の段階になって利害関係が生じたり、日常生活に不便を強いられるようなことになると停滞してしまうことが多い。 また、都市化が進展する一方で、地方では人口が流出し過疎化が大きな問題となった。そうした過疎地域や地方都市では、地域の資源を活かした内発的な地域おこしが行われ、そこからまちづくりへと発展していった例もある。北海道池田町のワイン行政や大分県の一村一品運動などがそれである。特定テーマにもとづくまちづくりの時代 1980年代後半になると、バブル経済により全国的に開発ポテンシャルが上昇し、研究学園都市建設やリゾート開発がブームとなったが、バブルの崩壊とともに負の遺産を残す結果となった。そうした問題への対応が迫られるなか、特定のテーマに賛同する高いまちづくり意識をもった人々が集まり、地域の垣根を越えた取り組みを行うようになっていった。テーマとしては、「防災」「福祉」「環境」など時代を反映したものが多い。 防災は、住環境整備と合わせて検討されることが多い。住環境整備の先進的な取り組みとしては、埼玉県上尾市の小規模連鎖型まちづくりの事例がしばしばあげられる。ある特定の場所で共同建替えが行われると、その成功体験を間近で見ていた隣接敷地の住民たちが、自らも共同建替えを順次実施し、最終的には街区全体の住環境の改善につながり、防災性の向上を実現したというものである。 人口減少時代に突入し、今後100年で日本の人口は半減することが確実視されている。それと同時に、これまで世界のどこの国も経験したことのない少子高齢社会を迎えている。そうしたなか、各地で住民同士の相互扶助体制を整え、地域福祉のまちづくりが進められている。地域の住民同士で子育て支援ネットワークを形成したり、住民同士で一人暮らしの高齢者を助ける仕組みを構築したりしている。防災まちづくりにも言えることであるが、これらの地縁をベースとした取り組みは地域まちづくりの始まりと問題解決型まちづくりの時代 人間は、共通の敵が出現すると力を合わせて対抗しようと結束する。まちづくりもそうしたことがきっかけとなり始まった。高度経済成長期に都市化が進む中でおこった都市問題や公害問題に対する「抵抗・反対運動」が日本におけるまちづくりの始まりであり、そこから「創造的まちづくり活動」へと発展していったのである。神戸市丸山地区では、交通公害に対する反対運動から子どもたちを守り育てる運動へ展開し、世田谷区烏山寺町や京都市伏見では、マンション反対運動が環境まちづくりへと発展していった。 高度経済成長期に全国的に都市化が進行し、そのスピードに都市計画が追い付かず、さまざまな都市問題が発生した。身近な居住環境において、狭隘道路、日照問題、交通渋滞、老朽住宅地などが出現し、ミニ開発により非効率的市街地が形成された。こうした身近な居住環境を改善しようとする取り組みが、高度経済成長が終焉を迎えた1970年代頃から始まった。この時代のまちづくりは、個々の問題にいかに住民が主体となって対処するかという問題解決型のまちづくりである。従来の自治会や町内会組織は自治体の末端組織としての性格が強く、自ら主体的に活動する組織としては十分には機能しなかった。スラムクリアランスの限界が認識され、修復・改善型の住環境整備が模索されるなかで、コミュニティづくり活動が進められ、身近な居住環境の改善が各地で行われた。この頃になると、ボトムアップでの問題解決が行われるようになり、市民の直接参加の仕組みづくりが試行された。習志野市地域会議や中野区住区協議会などがその先進的な取り組みとしてあげられる。 1966年に古都保存法が制定され、その後しばらくして歴史的な町並み保全運動が本格化する。1974年に妻籠、今井町、有松の3地域により全国町並み保存連盟が組織され、1975年には文化財保護法において「伝統的建造物群保存地区」の制度が制定された。こうした町並み整備というテーマは、視覚的にわかりやすく賛同されやすいことから、各地で早くから取り組まれてきた。しかし、実写真1 ㈱黒壁のマネジメントにより北国街道沿いに展開する黒壁五號館写真2 全国的な町並み保存活動の先駆けとなった中山道・妻籠宿

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