学校法人中部大学 80周年のあゆみ
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常磐高等学校の戦後初めての新築木造校舎愛知女子商業学校における常磐高等学校の運動会 1945年(昭和20年)3月19日、名古屋第一工学校にとって運命の日を迎えた。名古屋大空襲である。 警戒警報発令が19日午前1時45分、空襲警報発令が2時ちょうど、解除が4時54分。悪夢としか言いようのない2時間54分だった。名古屋第一工学校と分教場(実習工場、寄宿寮等)は全て炎の中に崩れ落ちた。 1945年(昭和20年)8月15日、戦争は終わった。 戦後の学制改革により、これまでの中学校は単独、あるいは合併によって新制高等学校へ変身していった。名古屋第一工学校も高等学校へ変わるべく努力をしてみたが、各種学校であったため、そのままでは新制高等学校への昇格は許されなかった。 そこで、名古屋第一工学校はそのままにして、別の新制度による名古屋工業中学校を設置して、名古屋第一工学校からの編入生を受け入れたが、校舎がなく、新たな入学志願者も皆無で、1948年(昭和23年)、82人の卒業生を送り出した後は有名無実の状態が続いた。 一方、名古屋第一工学校は愛知女子商業学校(名古屋市西区菊元町)の教室を借りて、残った生徒の授業を細々と続けたが、1949年(昭和24年)3月、30人の卒業生を送り出した後は応募者も無く、自然に休校状態となった。 丸1年間、生徒がいない、一番苦しい時期であった。 戦火によりすべて焼失 名古屋工業中学校開校 1950年(昭和25年)のはじめ、学校再建のチャンスがおとずれた。知人から、名古屋第一工学校と同じように「戦災で校舎を全焼し、無一物となった財団法人愛知常磐女子商業学校が、経営者に再建の意思が無く、法人を譲渡したがっている」という話が持ち込まれたのだ。 すでにある財団法人を受け継いで、新制高等学校を設立するのであれば、校舎、設備が多少基準に合わなくとも“再建途中”ということで認可が受けやすい。さっそく譲り受け、「1年以内に鶴舞校地に校舎を建てること」という条件はついたが、1950年(昭和25年)3月14日、設置認可となった。 とりあえず、西区の愛知女子商業学校の好意で校舎の一部を借り受け、1950年(昭和25年)4月1日、常磐高等学校は開校した。 1951年(昭和26年)1月には、移築した2階建て木造校舎が完成し、仮校舎を引き払って、やっと鶴舞の地に落ち着いた。 戦災で全焼して以来6年ぶりのことであった。名古屋第一工業高等学校の前身、常磐高等学校開校195011

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